豊臣秀次事件の真相
戦国時代に起こった出来事で、豊臣秀次事件があります。
これも謎が多いといわれています。
跡取り秀頼が生まれたとはいえ、成人するまで、秀吉は生きていられない、となると後見できる信用できる人物(身内)が必要です。その人物を積極的に消そうとするのか?政権が不安定化すれば、天下を取ろうとするものがいる状態で、です。
豊臣秀次(1568-1595)のことを、wikipediaでは次のように説明しています。
豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ / とよとみ の ひでつぐ)または羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の2代目関白。豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男。
(中略)
秀吉が天下人の道を歩み始めると、羽柴姓に復氏して、名も秀次と改名。豊臣姓も下賜された。鶴松が没して世継ぎがいなくなったことから、改めて秀吉の養嗣子とされ、文禄の役の開始前に関白の職を譲られ、家督を相続した。ところがその後になって秀吉に嫡子秀頼が誕生して、理由は諸説あるものの、秀次は強制的に出家させられて高野山青巌寺に蟄居となった後に切腹となった。秀次の首は三条河原で晒し首とされ、その際に眷族も尽く処刑された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
「殺生関白」などと言われ問題のある人物で、秀吉に跡取りが生まれると、自分の立場を危ぶみ、奇行が増えた、とか、秀吉に疎んじられたため処刑された、などと伝えられている。
これまでの通説に異議を唱えたのが、今日紹介する本です。
関白秀次の切腹
矢部健太郎
豊臣秀次は、秀吉の命じられて切腹したのではなく、自らの意志で切腹した、つまり身の潔白を明らかにするべく、当時の政権への抗議の意味で自ら切腹した、との見方を示しています。
当時、自らの意思で切腹するというのは、体制への強烈な抗議、反抗だったとのことで、身内(後継者)にそれをされてしまった太閤秀吉政権としては、政権の権威が落ちてしまう。天下を統一したとはいえ、徳川家康など危険な勢力もあるわけで、放ってはおけないので、政権の都合のいいようなストーリーを作った、ということを主張しています。著者は、一次資料を読み込み、政治の中心である京都、大坂と事件の起こった高野山との距離やことが起こる時間の矛盾を考慮しながら、大胆な説を示しています。
昨年の大河ドラマ「真田丸」では、秀次事件は、この矢部健太郎氏の説で描かれていました。(第28回「受難」)
豊臣秀次は有能な武将だったとも言われています。
戦も然ることながら、領地運営も素晴らしかったといわれています。秀次が治めたのが滋賀県の近江八幡。
水路が張り巡らされ、自由な商工業政策が行われ、発展した、と言われています。*1
水路は今も残り、近江八幡は「水郷」と言われているそうです。
そんな町を作った豊臣秀次。私は、 矢部説を信じたいと思います。